オムニバス・レコード

不特定多数の執筆者による、無記名ディスクレビューブログです。執筆者の数はネズミ算式に増えていくため、ブログ開設者も執筆者の全容を把握していません。

さよならキャメルハウス / WATER WATER CAMEL

さよならキャメルハウス

 

2009年にリリースされたサードアルバム。タイトルにある「キャメルハウス」とは、メンバー3人の共同生活の場であり制作スタジオでもあった一軒家の名前だそうだ。アルバムの最後を締めくくる表題曲は、まさにその生活が終わるころに作られたらしい。

バンドメンバーが寝食を共にして、その家で音楽を作っていた生活が終わりを迎える。そんな体験をしたことのない私には、美しささえ夢想できるエピソードだ。きっと当人たちの心には、私の想像の及ばない寂しさとか切なさがあると思う。

 

背景をどこまで重んじるべきかという問いに、公式のような解答はない。

WATER WATER CAMELの生活に、大きな変化があった。彼らに近かったものが、彼らから遠ざかった。そういうことを、私たちはどこまでおもんぱかって作品に接するべきなのか。大なり小なり、どんな芸術にもまとわりつく要素だ。ともすれば、本来なかったはずの魅力を、勝手に付け足してしまわせるもの。

『さよならキャメルハウス』のみならず、本作の前後の作品も、よく澄んでまっすぐに聴こえてくるボーカルと、楽器による彩りとのバランスが素晴らしく、繰り返しの鑑賞に耐えうるものだ。繰り返し聴ける音楽には2種類あると思う。聴くたびに発見があるものと、聴いても聴いても色褪せない同じ感動があるもの。私にとって、前後の作品が前者にあたり、このアルバムは後者にあたる。

 

#1『運命のアラサー』から、いきなり心を揺さぶられる。ミュージックビデオも制作されたリードトラックだ。私が観たライブでは最後に演奏されていたが、フィナーレとしてけちのつけようのない情感があった。人生の辛苦を飲みながら未来の祝福を信じる歌詞は、いつも強く響いてくる。#2『甲州夜曲』、#3『明日はポルトガル人のように』と軽妙な曲が続いたあとだから、#4『喜びは食卓に哀しみはトイレに』という「あなた」に投げかけられる歌は、ひときわ沁みる。そして続くインスト曲・#5『春風』では、音の種類と数が増していく構成に聴き入りながら、優しく峻厳な詞がないために一息つける。「一息つける」と思うからこそ、折り返し地点のように思える曲だ。#6『まとも』はスローなテンポと管楽器の音色によってゆったりと聴けるのに、「どうせ君も僕も死んじゃうわけだしね」なんて物騒で哀しい一節が現れる、一筋縄ではいかない曲。いつもここで「このアルバムも終わりに向かい始めている」という思いが芽生え、#7『瞬きさえできずに』の直線的なアプローチで、その思いは加速する。ワークショップか、友だちとパーティの一環で作ったような可愛らしいつくりの#8『Birthday』、ハープとアコギの音がことさら柔らかな#9『Family』に落ち着きを感じたのも束の間、煽情的なエレキギターから始まる#10『それもこれも風の気まぐれ』が、切れるまぎわの電球のように光る。そして#11『さよならキャメルハウス』で、アルバムは終わりを迎える。

『運命のアラサー』や『喜びは食卓に…』『Family』は、一曲を選んで聴くことも多いけれど、『さよならキャメルハウス』だけは、アルバムの流れでしか聴けない。私はこの曲を聴いている間、電気の絶えた家でロウソクを灯して共に過ごす人たちの姿を思い浮かべる(それがWATER WATER CAMELの皆さんかどうかは自分でもよく分からないし、多分どうでもいい)。暗い部屋に、その周りをぼんやり照らすだけの火がいくつか灯っていて、何人かの人が話すでもなく話す様が思い浮かぶ。それは、カセットというか昔のラジカセのような音で響いてくるギターと、ふんだんに取り入れられた環境音のために浮かぶ、安直なビジョンかもしれない。それでも私は、一度も見たことのないキャメルハウスの夜がこんな風だったら素敵だと少し思って、きれいだけど哀しい想いに駆られる。私が私の美しいと思うものを彼らの音楽にくっつけたからきれいなのではなく、WATER WATER CAMELが彼らの気持ちを盤に彫り込んでくれたから、私も哀しいのだ。何回か疑ってかかってもみたけれど、とりあえずもう、そういうことにしている。