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オムニバス・レコード

不特定多数の執筆者による、無記名ディスクレビューブログです。執筆者の数はネズミ算式に増えていくため、ブログ開設者も執筆者の全容を把握していません。

Congregación Viene... / Congregación

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芸術は時代の鏡であるならば。

パトリシオ・グスマンの映画「チリの闘い」が、製作からおよそ40年後の2016年に日本で初公開された。
簡単に内容に触れると、「チリの闘い」は3部構成・全263分に及ぶ長編ドキュメンタリーである。
1970年、自由選挙による社会主義政権の誕生、労働者たちの支持を集めたサルバドール・アジェンデの大統領就任から、改革政策が生んだ保守・富裕層そしてアメリカとの軋轢、有名な1973年の「チリの9・11」(軍事クーデターによる政権崩壊)までを捉えている。
クーデター後、左派の多くの市民は新政府から弾圧・迫害を受けた。グスマン自身もフィルムと共にフランスへ亡命し、この映画を完成させている。
映された誰も彼もの顔と言葉が、希望と絶望、誠実さと残虐さを見事に浮き彫りにしており、歴史を文字でしかなぞる事ができない我々に、この映画はたくさんの事を教えてくれる。

話を本題へ。
チリのバンドCongregaciónの唯一のアルバム「Congregación Viene...」が製作されたのは、1972年である。まさに激動の渦中に生まれた。
上記の歴史を踏まえると、シリアスな音楽を想像しがちだが、このアルバムが聞かせるのは、実に優しいアコースティック・サウンドだ。ゆえにサイケデリック、フォーク・リスナーの間では時代を超えた名盤として知られている。
霊性的臭気に満ちた霞のようなエコー。B面4曲目「Fantástico」の冒頭、警告めいた不穏な鐘の音の後に広がる、楽器と歌声が一体となったハーモニーの流麗さは言葉にし難い。
音が作り出す彼方の桃源郷は、ノスタルジアではない。この世界の美しさを提示することが、彼らなりの現代に対する抵抗だったのではないか。

CongregaciónのリーダーであるAntonio Smithは、やはりクーデター後、近隣国であるアルゼンチンへ亡命し、現在も音楽製作を続けている。
彼のソロ初期作2枚も「Congregación Viene...」の世界を継ぐ素晴らしい盤で、オリジナルは当たり前に10万円前後の値が付いているが、ドが着くほどマイナー、しかし、聴かれるべき音楽を丁寧にリイシューしている日本の「ブランコレーベル」が、正規CD再発の快挙を遂げている。

strange fruits / CHARA

 

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1999年に発売された、CHARAの6thアルバム。「やさしい気持ち」「タイムマシーン」といった、ヘビーリスナー以外にも聞き覚えのあるだろう楽曲を収録し、ミリオンセラーを記録した5th『junior sweet』の次作にあたる。

94年に発売された4th『Happy Toy』と、97年発売の『junior sweet』の間には、大きな飛躍がある。『Happy Toy』を悪く言うつもりはないが、『junior sweet』の方が明らかに、何と言うか魔力が強い。「あたしなんで抱きしめたいんだろう?」と「やさしい気持ち」のセールスの差、ひいてはどちらをより数多くより沢山のシチュエーションで耳にしてきたかの差、を感じているだけなのかもしれないが。

CHARAの活動年表を記す時、『Happy Toy』と『junior sweet』の間には、映画『PiCNiC』と『スワロウテイル』が挿まれる。2015年に再々活動でファンを驚かせた『スワロウテイル』の劇中バンド・YEN TOWN BANDとしての活動。そして浅野忠信との出会いが、刺激や糧になったのだろうか。毛布のようにも刃物のようにも愛を綴るシンガーだから、夫となる男性との出会いに、大きなものを感じないはずはないと思うけれど。

本作の3曲目『あの家に帰ろう』の詞は、CHARA浅野忠信の共作となっている。「ここを浅野が書いたのでは」という見当は正直つけられない。ただ、歌詞や絵が手書きされた歌詞カードと、最後の「あの家へ あの家に帰ろう」のリピートは胸を打つ。(多重録音ではあるにせよ)CHARAと名越由貴夫しか演奏に参加していないという作り方にも、不安と夢想がせめぎ合ういかにもCHARAらしい歌を、なるべく飾らずに立たせようという意図を感じる。

CHARAの詞の中で、愛が手放しに信じられることはない。『junior sweet』がヒットしたのは、目に見えやすいところに、愛を信じている部分が多いからではないだろうか? 『strange fruits』は『junior sweet』に負けず劣らず良質な楽曲を揃えながら、『junior sweet』より少し哀しくて寂しい。「あいしていると誠実に目に語れ」のような曲で、上昇する感じで終わらせることもできそうなのに、終始のたうち回るような歌詞の「なんでそんなことをさせるの?僕に」で、ダウナーに閉じられている。イントロもトリップホップ丸出しで、暗くて良い。

打ち込みの曲と、ASA-CHANGをはじめとしたドラマーの仕事が光る曲とのバランスが良く、絶妙なコントラストを成している。渡辺善太郎がプログラミングを担当したヒップホップ調かつオフビートな「70%-夕暮れのうた」から、名越と吉村秀樹ツインギターが徐々にテンションを増していき、中間部ではCHARAが絞り上げるようなファルセットで歌い上げてみせる「オブラート」に繋がるのも面白い。明るくさせきらないことによる微妙な光の濃淡がこのアルバムにはあって、いつまでも飽きが来ない。

 

1曲目『あたしはここよ』は、本当に素晴らしい。プロデュースにテイ・トウワ、客演にバッファロー・ドーターの大野裕美子とシュガー吉永を迎えたナンバーで、CHARAの歌のエモーションを押し上げながら、ギターロックの気持ちよさを最後まで味わわせてくれる。これをシングルにどうしてしなかったんだろう。強調的なドラムと、CHARA自ら弾いているサビのメロディを紡ぐトイピアノによるイントロ。視界が白むようなギターソロ。いつも聴いていて、始発の時間帯の風景を何となく思い描きます。

SSWB / D.A.N.

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東京拠点の3ピース・バンド。90年代のトリップホップや地下系クラブミュージックに軸足を置く音楽性と、都会的で洗練されたイメージブランディングを高次に融合させ、ファースト・フルアルバム『D.A.N.』はライトリスナーから大御所ミュージシャンまで多くの音楽ファンのハートを掴んだ。その余韻も冷めないうちに、シングル『SSWB』が2016.12.23配信開始した。

自主レーベル名でもある「Super Shy Without Beer」の頭文字を取った表題曲は8分近い長尺曲。『Stairway to Heaven』がほぼ完奏できる長さではあるものの、どうやら大作志向ではなく非常に軽やか且つスムーズな喉ごしで、繰返し聴いても飽きがこない。ミニマル・テクノを参照したループするベースラインを基調としながら、小林うてなが打つスティールパンの音色や、イーブンに刻み続けるハットが、いつまでも浮かれた心地でいさせてくれる。熱とアルコールを帯びた夜の空気を今にも触れられそうな位だ。

星空に打ち上がるような高揚感も、誰かの視線を気にするような背徳感も、作詞/ヴォーカルの櫻木大悟はスチャダラパーの名曲の一節を拝借し「それは夏のせいさ」とあしらう。しかし私達はもう知っている――そんな夜のぬるい風を、秋だろうと冬だろうと何度となく心身に覚える人生であると。そのときの決まりの悪さは気温と反比例するらしい。櫻木は直射日光を避けながら夏を描くのが巧い。

これまで表題曲『SSWB』 はこの配信シングルを含め異なる3形態でリリースされている。配信シングルだと、アルバム収録曲の透明度をぐんと高めたような、D.A.N.と親交の深いAlbino Soundによる美しいリミックス2曲とのコンパイル。なお本作における、エンジニアがAOKI takamasa、MV監督が石田悠介、という布陣はAlbino Soundのファースト・アルバム『Cloud Sports』を支えた面子である。

コロニー / 麓健一

コロニー

 

一曲一曲、ボーカルが同じようで、違うようで、同じだ。ドラムが効いていてビート感が強い曲の中で朗々と歌う声も、弾き語りの曲でか細く歌う声も、ひとつの響きをかたくなに持ち続けている。赤ん坊のような響きだ。生命力と、今にも死んでしまいそうな脆さとが、ぶつからずにそのままある。

唯一独特の響きがあるのは、『Fight Song (山荘と水着)』。ノイジーなギターとドラムにあてられたかのような絶唱から、骨と肉を硬く保った一人の男の狂気が匂い立ってくる。他の曲に通底している甘やかさではなく、倒れかけている建物のようなエロスに満ちた歌声。

アルバムの前半の楽曲におかしな推進力を加えている、スッパマイクロパンチョップのドラムもさることながら、ホソマリの弾く鍵盤がすばらしい。バンド編成でのスタジオ録音の曲のみならず、ほとんどの曲を美しく彩っている。石を磨く水流のような寄り添い方で。このアルバムの(ずっしりとした感動の重みとは対照的に)軽やかな響きは、鍵盤のきれいな響きとリズムによるところが大きい。

このアルバムでは幸せが歌われていない。むしろ不安こそがこのアルバムを貫いている。「鈍感で幸福であるくらいだったら、敏感で不幸でいたい」と端的に言い切ったのはマツコ・デラックス。なるほど、敏感な人ほど不幸を掬い上げやすい。幸せよりも不幸の方が感じ取りやすいのだから。しかし、一曲一曲が、心を平たく、冷たくさせるのに、アルバム一枚を聴き終わった後、少しだけ心が楽になっている。それはこのアルバムが放つ不安の波が、僕の不安の波と打ち消し合って、心を静かにするからだ。

2011年、kitiレーベル、48分14秒。

sal blakey / COMBO PIANO

sal blakey

 

99年作。鍵盤奏者・渡邊琢磨のソロプロジェクトの1stアルバム。後に結成される内橋和久・千住宗臣とのトリオが有名かと思うが、本作でもリトル・クリーチャーズの3名をはじめとしたお歴々がバックを務めており、演奏はとてもスリリングだ。トランペットで参加している「Shuichiro Sakaguchi」というのはダブル・フェイマスの坂口修一郎?

 

渡邊氏のライブを観たことがある方ならご承知だろうが、この1stでも演奏のピーキーさは遺憾なく発揮されている。全体の基調色は暗く、室内楽的にゆったり聴けそうな出だしだが、2曲目で脈絡なく挿し込まれる絶叫でちゃぶ台がひっくり返されると、それから後はいつ起こるとも知れぬ爆発に身構えざるを得なくなる。その緊張感が良い。

再生時間は26分と短く、ジャズとラテンの要素をうまく抜き差しする構成に酔っているとすぐに終わりを迎えてしまうが、それだけに何度も聴ける。アルバムの起伏を掴んでから無意識に聴く時にも、能動的に聴くのとは別の気持ちよさがある一枚。

音楽そのものと盤の経済的価値をイコールで結び付けるのは愚かだが、このアルバムがディスクユニオンで数百円で手に入るところに、音源を探すことの妙味を感じてしまう。

さよならキャメルハウス / WATER WATER CAMEL

さよならキャメルハウス

 

2009年にリリースされたサードアルバム。タイトルにある「キャメルハウス」とは、メンバー3人の共同生活の場であり制作スタジオでもあった一軒家の名前だそうだ。アルバムの最後を締めくくる表題曲は、まさにその生活が終わるころに作られたらしい。

バンドメンバーが寝食を共にして、その家で音楽を作っていた生活が終わりを迎える。そんな体験をしたことのない私には、美しささえ夢想できるエピソードだ。きっと当人たちの心には、私の想像の及ばない寂しさとか切なさがあると思う。

 

背景をどこまで重んじるべきかという問いに、公式のような解答はない。

WATER WATER CAMELの生活に、大きな変化があった。彼らに近かったものが、彼らから遠ざかった。そういうことを、私たちはどこまでおもんぱかって作品に接するべきなのか。大なり小なり、どんな芸術にもまとわりつく要素だ。ともすれば、本来なかったはずの魅力を、勝手に付け足してしまわせるもの。

『さよならキャメルハウス』のみならず、本作の前後の作品も、よく澄んでまっすぐに聴こえてくるボーカルと、楽器による彩りとのバランスが素晴らしく、繰り返しの鑑賞に耐えうるものだ。繰り返し聴ける音楽には2種類あると思う。聴くたびに発見があるものと、聴いても聴いても色褪せない同じ感動があるもの。私にとって、前後の作品が前者にあたり、このアルバムは後者にあたる。

 

#1『運命のアラサー』から、いきなり心を揺さぶられる。ミュージックビデオも制作されたリードトラックだ。私が観たライブでは最後に演奏されていたが、フィナーレとしてけちのつけようのない情感があった。人生の辛苦を飲みながら未来の祝福を信じる歌詞は、いつも強く響いてくる。#2『甲州夜曲』、#3『明日はポルトガル人のように』と軽妙な曲が続いたあとだから、#4『喜びは食卓に哀しみはトイレに』という「あなた」に投げかけられる歌は、ひときわ沁みる。そして続くインスト曲・#5『春風』では、音の種類と数が増していく構成に聴き入りながら、優しく峻厳な詞がないために一息つける。「一息つける」と思うからこそ、折り返し地点のように思える曲だ。#6『まとも』はスローなテンポと管楽器の音色によってゆったりと聴けるのに、「どうせ君も僕も死んじゃうわけだしね」なんて物騒で哀しい一節が現れる、一筋縄ではいかない曲。いつもここで「このアルバムも終わりに向かい始めている」という思いが芽生え、#7『瞬きさえできずに』の直線的なアプローチで、その思いは加速する。ワークショップか、友だちとパーティの一環で作ったような可愛らしいつくりの#8『Birthday』、ハープとアコギの音がことさら柔らかな#9『Family』に落ち着きを感じたのも束の間、煽情的なエレキギターから始まる#10『それもこれも風の気まぐれ』が、切れるまぎわの電球のように光る。そして#11『さよならキャメルハウス』で、アルバムは終わりを迎える。

『運命のアラサー』や『喜びは食卓に…』『Family』は、一曲を選んで聴くことも多いけれど、『さよならキャメルハウス』だけは、アルバムの流れでしか聴けない。私はこの曲を聴いている間、電気の絶えた家でロウソクを灯して共に過ごす人たちの姿を思い浮かべる(それがWATER WATER CAMELの皆さんかどうかは自分でもよく分からないし、多分どうでもいい)。暗い部屋に、その周りをぼんやり照らすだけの火がいくつか灯っていて、何人かの人が話すでもなく話す様が思い浮かぶ。それは、カセットというか昔のラジカセのような音で響いてくるギターと、ふんだんに取り入れられた環境音のために浮かぶ、安直なビジョンかもしれない。それでも私は、一度も見たことのないキャメルハウスの夜がこんな風だったら素敵だと少し思って、きれいだけど哀しい想いに駆られる。私が私の美しいと思うものを彼らの音楽にくっつけたからきれいなのではなく、WATER WATER CAMELが彼らの気持ちを盤に彫り込んでくれたから、私も哀しいのだ。何回か疑ってかかってもみたけれど、とりあえずもう、そういうことにしている。

10th Anniversary SMAP SHOP! / SMAP

 

 

昨年末に解散したSMAPがキャリアの最後にリリースした楽曲、つまり現状における「SMAPの最新楽曲」を聴けた人は、実はごく限られている。というのも、CD店・ネットショップなどで一般流通した作品ではないからだ。

 

SMAPは2005年から期間限定ショップ「SMAP SHOP」を毎年末年始に実施していた。
そこでは、その年のコンサートやTV出演時の衣装展示や、店内でしか見られないメンバーのコメント映像、年ごとに設けられるコンセプトに沿ったアートワークで展開される各種グッズなどが販売されていた。

その中で毎年の恒例となっていたのが、2007年から登場した通称「39CD」だ。 

これは、その年のファンの応援に対してメンバーからの感謝=サンキューという謝意が込められた<3分9秒・390円>という1曲入りのCDで、中身はSMAPメンバーの断片的な台詞(例えば「ありがとう!」や「サイコー!」のような)をコラージュしたインストナンバーである。

そう、SMAP現時点でのラストチューンは、この「39CD」としてリリースされたトラックなのだ。

 

さて、この「SMAP SHOP」は年末年始に開催されるのだが、東京のみの小規模な会場1ヵ所、しかも屋外の吹きさらしにて先着順で整理券が配られるという極悪システムにより、ファンは極寒(時には雨や雪が降る)の中、始発レベルの早朝から列に数時間整列しなければならない。

さらにやっとのこと受け取った整理券に指定された時間に再度集合しそこからまた並び、ようやくグッズ購入へとたどり着くという、西遊記における天竺よりも遠いのではないかというキツすぎる道のりが課せられていた。

で、俺も例に漏れずその苦行を甘んじて受け入れていた。その理由は他でもないこの「39CD」を購入するためで、なぜなら毎年豪華なトラックメイカーが起用されていたからだ。

例えば、小西康陽中塚武中田ヤスタカ菅野よう子、ナカコーなどなど。名うての音楽家たちがSMAPのボイスサンプルをネタに3分9秒のトラックを作る。こんな贅沢な遊び企画があるだろうか。 

しかし、そんな特殊な条件だったからこそ、この「39CD」は参加したトラックメイカーの実力をかなり残酷に浮き彫りにしてしまうものでもあった。名指しこそしないが、中には正直二度聴くに堪えないものもあったりする。

まあジャニーズのやることなので、鬼のような進行で制作せざるを得ない状況があったのではないか、という想像もできるが、仮にそうだとしてもいい作品もちゃんとあるので言い訳は許されない。実はかなりシビアな条件による“トラック創作コンテスト”とも言える企画だったのだ。

 

結局「SMAP SHOP」は誕生10周年を迎えた2015年末の開催をもって終了となり、「39CD」の歴史もそこで潰えることになった。最後のトラックメイカーとして指名されたのは、tofubeats。彼こそが、現時点でSMAPのラストチューンを手がけた音楽家ということになる。

tofubeatsは、2015年リリースの椎名林檎の作によるシングル『華麗なる逆襲』のリミックスで初めてSMAP仕事に携わる。そのリミックスは端正にまとめられながらもまだまだ牙を隠している風だったのだが、その後「39CD」として制作した『10th Anniversary SMAP SHOP!』は、彼のエディットセンス&スキルが爆発した、本当にすばらしい仕上がりになっている。

3分9秒という尺のなかで、ポップスとしての起承転結・ダンスミュージックとしての機能性・アイドルソングとしてのシズル感が三位一体となっている仕上がりは、まさにプロの仕事。メンバーの台詞の意味に引っ張られることなく、発語の響きの快感を極限まで突き詰めながらも、各メンバーの声に宿るキャラクター性を最大限に引き出す構成は、この「39CD」シリーズの中でも屈指のクオリティとなっている。 

そして何より、本曲のなかでSMAPはただひたすらに、明るく、楽しそうなのだ。それがとってもいい。

 「ライドオーン!」「ハッピーハピハピ」「ワクワクする~!」「マジ!?」「えす、えむ、えー、ぴー!」「ありがとうございましたー!」

tofubeatsのカラフルなサウンドに乗る彼らの声を聴きながら想う。SMAPはなくなった。その終わりについては、誰も(もしかしたら本人たちも)なにも整理できていないのではないか。

なんにせよ、なにかが終わるということはそもそも、わかりやすく納得できる結論など出ないものなのかもしれない。

ただ、そのピリオドが例え不本意なものだったとしても、SMAPの音楽がこの曲で終わったことは、本当に幸せなことだとも思う。で、それがこんなに入手しづらい形態でリリースされた企画モノの作品であることも、多くの人に聴かれる機会を損なってしまっている不幸はあるものの、そのなんだかシマらない風情にも、不思議と愛らしさを感じたりもする。

 

このトラックにはただただ音の中で楽しみまくっているSMAPの姿が、これでもかというほどチャーミングに記録されている。そのあっけらかんとした清々しさは音楽家としての彼らには本来とても相応しいもので、そんな曲が彼らのラストチューンになったというめぐり合わせは、音楽家としてのSMAPの本質のようなものを映し出しているような気すらするのだ。

できることならtofubeatsとガッツリ組んだ歌ものポップミュージックとしての新曲も聴いてみたかったが、それは遠い未来のお楽しみとして心の奥に留めておくことにする。