オムニバス・レコード

不特定多数の執筆者による、無記名ディスクレビューブログです。執筆者の数はネズミ算式に増えていくため、ブログ開設者も執筆者の全容を把握していません。

コンビニブルース / はでな女 / 下岡晃(ex.アナログフィッシュ)

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 ライブ会場限定販売のCD-Rと思われます(筆者も会場で買いました)。

 『コンビニブルース』はいろいろなお店が閉まり、町のそこかしこにコンビニが出来ていく様子をアイロニカルに、そして最後にもうひと捻りを加えた一曲。

 以前、アジカン後藤正文が「同世代で下岡君ほどまともな歌詞を書いている人はいない」と、THE FUTURE TIMESのこの記事で語っていた。ゴッチが「まとも」という言葉に込めた気持ちというかニュアンスはリンク先の記事を読んで汲んでほしいのだけど、確かに下岡さんの歌詞はまともだ。正論的だし、「そうそう、こういうものだよね」と飲み込みたくなる。だけど、それだけではない。圧倒的にそれだけではない。ゴッチの言った「まとも」にもそういう考えが多分に含まれていたと思う。

 八百屋や本屋が閉まって、コンビニになっていく。その寂しさは、よく語られるエピソードである。そこにもうひと捻りを加えるということ。直線軌道でボールを飛ばすためにバックスピンをかけてボールを投げるように、まっすぐ伝えるために意匠を凝らすということ。下岡さんの歌にはそういう美点があり、ひねくれた者に、束の間すなおさを蘇らせてくれる。まっすぐな道を蛇行することの意義を分からせてくれる。

 

 表題曲以外に、3曲目に京都Sole Cafeでのライブ音源も収録(このトラックの尺が破格に長くて、最初コンポに入れた時、何かのミスで無音のトラックでも入ったのかと思った)。アナログフィッシュの曲もたくさんやる一方、カバーも多い。アナログフィッシュの初期ドラマー・バロンなかざわの『夢をみるのさ』(戦前のジャズ曲『Wrap your troubles in dreams』の、バロン氏による日本語訳カバー)も、カリフォルニアのロックバンド・CAKEの曲を、下岡さん自ら日本語訳して歌っているカバーも素晴らしい。

 CAKEは下岡さんのカバーで初めて知りました。曲の最後に原詞で一節歌う曲もあるので「カバーかな?」とは思っていたのですが、日本語詞の部分には元が洋楽とは思えない豊かさがあり、後にUSロックのカバーと知ってびっくり。最初に聴いたのが原詞の入らない『Tougher than it is』だったからか。『Mexico』なんかは原詞の内容と韻を巧みに取り込んでいて、それはまた別の味があるものの、『Tougher than...』はもうオリジナルというか、別物と言って差し支えないほど自分のものにしている。ぜひライブで聴いてみてほしい。

 

Some people like to make life a little tougher than it is

人は自分の人生をきれいに見せたがる

Some people like to make life a little tougher than it is

時に自分の人生をむずかしくしたがる

Cornelius / Mellow Waves

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新作リリースを待ち望んでいた人、デビューから時が止まっている人、フリッパーズ・ギターは好きだけどソロは通っていないという人、これまで彼の存在すら知らなかった人。

プレイボタンを押すなり、あらゆる立場のリスナーの耳を瞬時にリフレッシュしてしまう得も言われぬキック一発で幕を開ける、コーネリアス11年ぶりのアルバム。

本作には、salyu × salyu、METAFIVEをはじめ、前作から11年の間に彼が参加してきたどのプロジェクトの楽曲よりも、静かで、内省的で、現行のポップミュージックとしてはストレンジな肌触りの10曲が収録されている。

 

思えば2006年の「SENSUOUS」が出たときも、2001年の「POINT」のときも、そういう感覚はあった。特に2000年以降のコーネリアスは、その時々のポップミュージックの枠を更新する作品を提示してきたし、今作でもその革新的な側面は変わっていない。

以前と比較するなら、久々に歌モノの楽曲が増え、やわらかなアコギの音色と親しみやすいメロディがたゆたう後半は、ソロ作ではあまり見えてこなかった、彼のグッド・メロディ・メイカーとしての表情が豊かに花開いている。

が、それ以上に、本作から自分はこれまでにないほどの異形感を感じてしまう。

その理由は、過去作にあった、音楽そのものに対する無邪気かつポップなユーモアが影を潜め、代わりにこの世界に対する、ゆるやかな、しかし確実な諦観が通底しているからだ。

 

象徴的なのはアルバム冒頭に配された、先行シングルでもある「あなたがいるなら」「いつか/どこか」だ。

「あなたがいるなら」はほぼキャリア初と言っていいほどのストレートなラブソングだが、坂本慎太郎による歌詞世界の背後には、なにかを愛するという行為そのものを「なぜ」と問い直さずにはいられない、人間という存在が宿命的に背負う不確かさ・儚さが前提として横たわっている。

小山田圭吾本人の作詞による「いつか/どこか」では、アルバム中もっともアグレッシブなアンサンブルに乗せ、よりはっきりとした無常観が綴られている。ジャケットデザインや、ライブでも使用されるだろうMVも、色彩豊かだった過去作に比べ、彩度の低いモノクロの世界観で統一されている。

入り口がこの2曲である以上、アルバムを聴き進め、タイトル通りメロウに波打つ心地よいグルーヴに身を任せても、そのまま遥か遠い、自分すら消えてしまうようなところへトリップしてしまうような、どこか薄ら寒いような感覚を覚えてしまう自分がいる。

 

しかし、では本作は、ある種のネガティヴネスが強く反映された作品なのかと言うと、まったくそうではない。本作で聴けるストレンジなサウンドと、小山田のボーカル、またいくつかの楽曲で聴けるギターソロには、確かにいま・ここで新しい音楽を鳴らすということに対する、ひとりの音楽家の生々しい渇望ときらめきが宿っている。

そしてなにより、11年ぶりのアルバムという勝手にどこまでもハードルを上げたくなるタイミングの作品にして、世に対する諦観を露わにし、得体のしれなさをたたえながらも、驚くべきことに、ここからまだどこにでも行けそうな、自然体かつ和やかな風通しのよさも同時に発揮しているのだ。

 

彼はきっとまたいつか、新しい音楽を届けてくれるはず。アルバムを聴き終えて最初に感じたのは、そういう予感のようなものだった。

コーネリアスの表現は、11年の歳月を経て、ひとまずここに辿り着いた。そしてこれからも、いくらでも変化し、続いていくのだろう。そんな予感に満ちたアルバムを聴くことができるのは、音楽を愛する者として、なにものにも代えがたい幸せだ。

吉田ヨウヘイgroup - paradise lost, it begins

paradise lost, it begins

シティポップとはなんぞや。

軽めのインディーポップがシティポップとひとまとめにされ始めたのは2015年くらいだったと記憶している。cero、Yogee New Waves、AWESOME CITY CLUB、といった、ジャンルもバックボーンもばらばらなアーティストたちが、この「シティポップ」の言葉で纏められていたような、そんなおぼろげなものだけれど。 吉田ヨウヘイgroupも、そんなシティポップの名の下で括られていた。僕だって正直そういった目線で(耳線で?)彼らの音楽を聴いていた。2015年にリリースされた「paradise lost, it begins」は吉田ヨウヘイgroupによる3枚目の作品だった。

ファズの効いた、エッジィなギターのサウンドと管楽器の音がここまで調和するとは考えたこともなかった。全編、おそらくはz-vexのファズファクトリーではないだろうか、特にPVにもなっている#3「ユー・エフ・オー」ではその殆どを金属的なファズの音で鳴らしている。

その攻撃性をもったギターと柔らかな管楽器の音の中で、吉田ヨウヘイgroupは「生活」を歌っている。よく使う路線の駅前はどこも似たようで辟易し、イライラし、知り合いに最近連絡が取れなくて心配したり。その小市民さが言葉として表現される。 スーパーで安売りの魚肉ソーセージと玉ねぎを買って帰る、歩行者信号が点滅して、慌てて走り出す。そういった普遍な生活が攻撃性をもった楽曲に乗ると、そこにはまさに「パラダイスロスト」な、ある種の倦怠感が感じられる気がする。これは郊外生活では持ち得ない、都市生活特有の感覚だろう。都市はモノに溢れている。だというのに、個人の生活では上記のような普遍的生活に収束していくのだ。そこに虚しさだったり、冷たさだったり、倦怠感を感じるのは贅沢だろうか? 向井秀徳が「冷凍都市」と歌ったような、そんな激しさはないけれど、だからこそ、彼らが歌う生活はリアリティがあった。

しかしてこのアルバムは、その生活をネガティヴに歌ったものではない。ポジティブに歌った、ポップスのアルバムだ。#1「Music,you all」で、彼らは「無駄なことなんて何にもないってどこがで読んだり言われたりしたけど/ただ僕が知りたいのは一つだけ/きみに近づいているかっていうことだけ」と歌う。生活をするなかで積み重ねたもので、大事なものにアプローチし続けていくことをポジティブに歌うから、彼らの楽曲は光を持っている。

シティポップとはなんぞやと冒頭で問うた。薄曇りの日に差し込む日差しのような、彼らが歌っている風景こそがシティポップであると、僕は強く思う。

Many Shapes / Taiko Super Kicks

 

Many Shapes

 

2015年末に出た1stフルアルバム。その前に出しているのはミニだけ。

 
出てきた当初から、ベルベット・アンダーグラウンドとかペイヴメントとかヨ・ラ・テンゴと比較されがちで、実際「オルタナをストレートに継承した」のはその通りのバンドではあるけど、じっくり聴いてみるとそれだけではない。どういう詞を書くかじゃなくて、日本語自体の聞こえがどういうものかを考えて、詞と、テンポとかサウンドとのバランスが取られている。だからか、ギター二本ともの音圧が強い時も、総合的には少し丸く聴こえるし、べたべたした「踊れる」感じがしなくて、響きが清冽。
上で挙げたベルベッツとかにある「抜けた」感じというよりも、もっと意識的に丹念に「抜いた」痕跡があって、それなのに、オルタナっぽい大雑把さからくる旨味が殺されてない。むしろ「抜いた」結果として、味のあるデッドスペースが出来ている。
そういう意味で、何と言うか寺っぽい。雰囲気が石庭に似ている。寺というのも飛鳥時代とかに中国を模倣して確立していった建築だが、日本における仏教の変形と流行り廃りによって新様式ができていったわけで、USロックの乾燥感とか開放的な響きとかのような、いい感じのだらしなさからくる快楽の模倣ではなく、几帳面に「抜く」ことに日本人としての(感覚を活かした)音楽の可能性があると思う。「寺、別に、塔なくても良くない?」みたいな。
日本最古レベルの寺である飛鳥寺とかもカッコイイはカッコイイけど、それはビートルズが「白人なのにロックやってる」という空気のもとチャック・ベリーをカバーして、ロックンロールなのにスキッとしててカッコイイみたいな理屈であって、現代的な感覚で見てしまうと、どうしても枯山水とかの方が寺の静謐性を表現するようで、例えば広告とかにも使われるし、「やっぱサージェントペパーズはすごい」みたいに語られる。模倣でカッコイイのはパイオニアだけということは言わずもがなでもあるし。
そういう意味では、Taikoは新しい寺を模索してるという感じがして、すごく好きだ。
 

Congregación Viene... / Congregación

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芸術は時代の鏡であるならば。

パトリシオ・グスマンの映画「チリの闘い」が、製作からおよそ40年後の2016年に日本で初公開された。
簡単に内容に触れると、「チリの闘い」は3部構成・全263分に及ぶ長編ドキュメンタリーである。
1970年、自由選挙による社会主義政権の誕生、労働者たちの支持を集めたサルバドール・アジェンデの大統領就任から、改革政策が生んだ保守・富裕層そしてアメリカとの軋轢、有名な1973年の「チリの9・11」(軍事クーデターによる政権崩壊)までを捉えている。
クーデター後、左派の多くの市民は新政府から弾圧・迫害を受けた。グスマン自身もフィルムと共にフランスへ亡命し、この映画を完成させている。
映された誰も彼もの顔と言葉が、希望と絶望、誠実さと残虐さを見事に浮き彫りにしており、歴史を文字でしかなぞる事ができない我々に、この映画はたくさんの事を教えてくれる。

話を本題へ。
チリのバンドCongregaciónの唯一のアルバム「Congregación Viene...」が製作されたのは、1972年である。まさに激動の渦中に生まれた。
上記の歴史を踏まえると、シリアスな音楽を想像しがちだが、このアルバムが聞かせるのは、実に優しいアコースティック・サウンドだ。ゆえにサイケデリック、フォーク・リスナーの間では時代を超えた名盤として知られている。
霊性的臭気に満ちた霞のようなエコー。B面4曲目「Fantástico」の冒頭、警告めいた不穏な鐘の音の後に広がる、楽器と歌声が一体となったハーモニーの流麗さは言葉にし難い。
音が作り出す彼方の桃源郷は、ノスタルジアではない。この世界の美しさを提示することが、彼らなりの現代に対する抵抗だったのではないか。

CongregaciónのリーダーであるAntonio Smithは、やはりクーデター後、近隣国であるアルゼンチンへ亡命し、現在も音楽製作を続けている。
彼のソロ初期作2枚も「Congregación Viene...」の世界を継ぐ素晴らしい盤で、オリジナルは当たり前に10万円前後の値が付いているが、ドが着くほどマイナー、しかし、聴かれるべき音楽を丁寧にリイシューしている日本の「ブランコレーベル」が、正規CD再発の快挙を遂げている。

strange fruits / CHARA

 

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1999年に発売された、CHARAの6thアルバム。「やさしい気持ち」「タイムマシーン」といった、ヘビーリスナー以外にも聞き覚えのあるだろう楽曲を収録し、ミリオンセラーを記録した5th『junior sweet』の次作にあたる。

94年に発売された4th『Happy Toy』と、97年発売の『junior sweet』の間には、大きな飛躍がある。『Happy Toy』を悪く言うつもりはないが、『junior sweet』の方が明らかに、何と言うか魔力が強い。「あたしなんで抱きしめたいんだろう?」と「やさしい気持ち」のセールスの差、ひいてはどちらをより数多くより沢山のシチュエーションで耳にしてきたかの差、を感じているだけなのかもしれないが。

CHARAの活動年表を記す時、『Happy Toy』と『junior sweet』の間には、映画『PiCNiC』と『スワロウテイル』が挿まれる。2015年に再々活動でファンを驚かせた『スワロウテイル』の劇中バンド・YEN TOWN BANDとしての活動。そして浅野忠信との出会いが、刺激や糧になったのだろうか。毛布のようにも刃物のようにも愛を綴るシンガーだから、夫となる男性との出会いに、大きなものを感じないはずはないと思うけれど。

本作の3曲目『あの家に帰ろう』の詞は、CHARA浅野忠信の共作となっている。「ここを浅野が書いたのでは」という見当は正直つけられない。ただ、歌詞や絵が手書きされた歌詞カードと、最後の「あの家へ あの家に帰ろう」のリピートは胸を打つ。(多重録音ではあるにせよ)CHARAと名越由貴夫しか演奏に参加していないという作り方にも、不安と夢想がせめぎ合ういかにもCHARAらしい歌を、なるべく飾らずに立たせようという意図を感じる。

CHARAの詞の中で、愛が手放しに信じられることはない。『junior sweet』がヒットしたのは、目に見えやすいところに、愛を信じている部分が多いからではないだろうか? 『strange fruits』は『junior sweet』に負けず劣らず良質な楽曲を揃えながら、『junior sweet』より少し哀しくて寂しい。「あいしていると誠実に目に語れ」のような曲で、上昇する感じで終わらせることもできそうなのに、終始のたうち回るような歌詞の「なんでそんなことをさせるの?僕に」で、ダウナーに閉じられている。イントロもトリップホップ丸出しで、暗くて良い。

打ち込みの曲と、ASA-CHANGをはじめとしたドラマーの仕事が光る曲とのバランスが良く、絶妙なコントラストを成している。渡辺善太郎がプログラミングを担当したヒップホップ調かつオフビートな「70%-夕暮れのうた」から、名越と吉村秀樹ツインギターが徐々にテンションを増していき、中間部ではCHARAが絞り上げるようなファルセットで歌い上げてみせる「オブラート」に繋がるのも面白い。明るくさせきらないことによる微妙な光の濃淡がこのアルバムにはあって、いつまでも飽きが来ない。

 

1曲目『あたしはここよ』は、本当に素晴らしい。プロデュースにテイ・トウワ、客演にバッファロー・ドーターの大野裕美子とシュガー吉永を迎えたナンバーで、CHARAの歌のエモーションを押し上げながら、ギターロックの気持ちよさを最後まで味わわせてくれる。これをシングルにどうしてしなかったんだろう。強調的なドラムと、CHARA自ら弾いているサビのメロディを紡ぐトイピアノによるイントロ。視界が白むようなギターソロ。いつも聴いていて、始発の時間帯の風景を何となく思い描きます。

SSWB / D.A.N.

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東京拠点の3ピース・バンド。90年代のトリップホップや地下系クラブミュージックに軸足を置く音楽性と、都会的で洗練されたイメージブランディングを高次に融合させ、ファースト・フルアルバム『D.A.N.』はライトリスナーから大御所ミュージシャンまで多くの音楽ファンのハートを掴んだ。その余韻も冷めないうちに、シングル『SSWB』が2016.12.23配信開始した。

自主レーベル名でもある「Super Shy Without Beer」の頭文字を取った表題曲は8分近い長尺曲。『Stairway to Heaven』がほぼ完奏できる長さではあるものの、どうやら大作志向ではなく非常に軽やか且つスムーズな喉ごしで、繰返し聴いても飽きがこない。ミニマル・テクノを参照したループするベースラインを基調としながら、小林うてなが打つスティールパンの音色や、イーブンに刻み続けるハットが、いつまでも浮かれた心地でいさせてくれる。熱とアルコールを帯びた夜の空気を今にも触れられそうな位だ。

星空に打ち上がるような高揚感も、誰かの視線を気にするような背徳感も、作詞/ヴォーカルの櫻木大悟はスチャダラパーの名曲の一節を拝借し「それは夏のせいさ」とあしらう。しかし私達はもう知っている――そんな夜のぬるい風を、秋だろうと冬だろうと何度となく心身に覚える人生であると。そのときの決まりの悪さは気温と反比例するらしい。櫻木は直射日光を避けながら夏を描くのが巧い。

これまで表題曲『SSWB』 はこの配信シングルを含め異なる3形態でリリースされている。配信シングルだと、アルバム収録曲の透明度をぐんと高めたような、D.A.N.と親交の深いAlbino Soundによる美しいリミックス2曲とのコンパイル。なお本作における、エンジニアがAOKI takamasa、MV監督が石田悠介、という布陣はAlbino Soundのファースト・アルバム『Cloud Sports』を支えた面子である。